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〜レス妻の目覚めの記録〜

遊女だらけに夜這いし放題!?江戸は性に寛容な社会だった?

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江戸名所百景 新吉原の図 アムステルダム国立美術館 Europeana

"Shin Yoshiwara no zu" owned by Rijksmuseum - Europeana

 

の続きです。

 

江戸の性事情に関する本を読み進めるうちに、これまで知らなかったことが明らかになっていくわけですが、今回は遊女の種類や庶民のふるまい、社会通念などを紹介しながら、全体像をざっくりまとめていきます。

  • 本からの要約部分は、「〜だ」「〜である」調になっています。
  • 当時の文献は、大きく春本と戯作(人情本、洒落本、滑稽本など)に分け、ノンフィクションは書名だけで記しています。
  • 記事中に差別的な表現が出てくることがありますが、当時の社会的、文化的状況が反映された表現ですので、ご理解をお願いいたします。

 

 

玄人

まずは、女性を、売春する「玄人」と、普通の娘や妻の「素人」に分け、玄人は「公娼」「私娼」に分けます。

 

江戸時代は、売春が合法でした。「公娼」は、売春が公認されている社会で、きちんと役所に登録し許可を得ている娼婦、許可を得ずに営業している娼婦は「私娼」です。なお、女ではないけれど、陰間も私娼にまとめています。

 

では玄人からみていきましょう。

 

公娼

吉原

吉原は、江戸における唯一の公許の遊郭であり、町奉行所が管轄していた。吉原の遊女は公娼。

揚屋(あげや)制度があり、客はいったん揚屋にあがり、妓楼(ぎろう)から遊女を呼び寄せて遊興する仕組みだった。妓楼は遊女の独身寮兼事務所で、揚屋はラブホテルに相当する。吉原の妓楼は大見世、中見世、小見世に分けられる。規模の違いと同時に、格の違いでもある。

江戸以外の公許の遊郭には、京都の島原、大坂の新町、長崎の丸山、横浜の港崎(みよざき)がある。

宿場

街道の要所要所にある宿場の旅籠屋(はたごや)には、道中奉行から飯盛女(宿場女郎)と呼ばれる遊女をおくのを認められていた。そのため宿場の遊女は公娼といえる。江戸市中から近くに、品川、内藤新宿、板橋宿、千住と呼ばれる「江戸四宿」があった。

飯盛女を置いた旅籠屋を飯盛旅籠屋、普通の旅籠屋を平旅籠屋と呼んだ。

 

私娼

岡場所

非合法の売春街で、岡場所の遊女は私娼。
違法とはいえ実際にはいたるところで営業しており、とくに寺院や神社の門前など、人の集まる繁華な場所が多かった。泊まりの有無など、岡場所の仕組みは個々の女郎屋により多種多様だったが、共通しているのは、格安で手軽だったことである。

時おり町奉行所が取締りを断行し、岡場所の女郎屋は取り潰され、遊女も処罰された。

芸者

芸者は売春をしてはならないのが定めだったが、実際には金をもらって客の男と寝るのは常識になっていた。売春行為をしている芸者は私娼といえる。しばしば町奉行所の摘発を受けた。

舟饅頭(ふなまんじゅう)

舟饅頭は川べりに小さな苫舟(とまぶね)を停め、客を呼び込む私娼。男に声をかけ、舟の中にさそった。

比丘尼(びくに)

比丘尼は本来、参詣人の多い神社の境内で、尼のかっこうをした一種の女芸人だったが、そのうち、容色のすぐれた比丘尼が売春するようになったという。享和のころにはすでにいなかったが、全盛期には、尼のかっこうで町を歩き、声がかかると相手の家に行って売春した。

夜鷹(よたか)

物陰で地面にござを敷いて商売を行う最下級の街娼で、揚代は俗に蕎麦一杯の値段と同じともいわれた。
岡場所や宿場の女郎屋で通用しなくなり、生活の手段がなくやむなく路上に立つようになった女が多い。そのため、年齢は高く、病気持ちが普通だった。

地獄

堅気の家業をしている男の女房や娘が、こっそり売春するというもの。道で露骨に男をさそったりはせず、あくまで人の紹介などを経て、小料理屋の二階や知人の家を借り、あるいは自宅で秘密裏に売春をした。
地者(素人女)の極内々の者、極上などから、地極→地獄とよばれるようになったとか。

(めかけ)
富裕な男が吉原の遊女や芸者を身請けして妾にするほか、口入屋(くちいれや)に斡旋を頼むこともあった。この場合、妾を希望する女も口入屋に登録しておく。女からすれば妾奉公であり、妾は職業の一つだった。また、 複数の男で一人の妾を囲うこともあった。
陰間(かげま)
陰間は男色専門の男娼で、陰間を置いているのが陰間茶屋である。客はいったん近くの料理屋にあがり、そこに陰間を呼び寄せる仕組みだった。陰間の多くは十二、三歳で売られた男の子で、二十歳をすぎると転業して堅気の商人になる者もあったが、多くは幇間(ほうかん)などの芸人や、女を相手にする男娼となった。

 

* * *

 

江戸の遊女と聞くとまず吉原を思い浮かべるけれど、吉原にとどまらず、いたるところでは多種多様な売春がおこなわれていたことに、ただ驚くばかりです。

 

なぜこんなにも多かったのでしょうか。

女郎買いをしたのは独身の男だけではない。妻帯者も盛んに、しかも大っぴらに女郎買いをしていた。(中略)

江戸に遊女が多かったのは、当時の社会には売春に対する抵抗感や罪悪感がなかったからである。売春に寛容な社会だったといえよう。
少なくとも、日本では売春は宗教上の悪ではなかった。

※2 p19

 

素人

では、素人はどうでしょうか。

 

玄人ではない女たち

武士や豪商の娘
大身の旗本や豪商の娘は風紀にはきびしく、外出時には必ず複数の奉公人を供につけた。男と自由に交際するのは極端に困難だったが、それでも、旗本や豪商の娘が色恋沙汰を起こす例は皆無ではなかった。結婚は家と家の結婚だったため、親同士が決め、当人たちは婚礼の日に初めて対面した。
武士の妻
武士の妻は何より貞節を求められたし、実際にそれを頑なに守った妻もいた。一方で、密通も決して少なくなかった。
庶民、下級武士の娘
行動は自由で奔放だったし、十五、六歳までにたいてい男を知っていた。多くの女は結婚前に、すでに別な男と性体験をしていたが、世間もそれをごく当然のことと受け止めていた。武士や豪商と違い、庶民の結婚は気楽だった。

 

夜這いし放題

夜這いは一般の農村漁村の習俗と考えられているが、大都市の江戸でも珍しいことではなかった。

当時は武家屋敷であれ大きな商家であれ、男女の奉公人は住み込みが原則だった。ひとつ屋根の下で多数の若い男女が暮らしており、しかも、仕切りは襖や障子、鍵もかからない木造家屋のため、例え風儀が厳格なはずの武家屋敷であっても夜這いが横行していた。商家など、庶民においては言うまでもない。また、近親相姦も多かった。

 

* * *

 

素人は大胆かつ野放図だったようです。

 

 

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当時の社会通念

密通はありふれたこと

江戸時代では、正式な婚姻以外の男女の性交渉はすべて密通だった。 

現在の不倫よりももっと意味が広く、恋人同士の婚前交渉、近親相姦、僧侶が遊里で遊ぶことも密通だった。しかも密通の処罰は非常に厳酷で、『公事方御定書』によると、密通を犯した場合、死刑(磔:はりつけ、獄門、死罪、下手人)となった。

 

しかし 、 江戸の男女は厳罰におびえ、死を覚悟して忍び会っていたのかというと、けっしてそんなことはなく、あっけらかんとセックスを享受していた。

 

密通の刑罰はあまりに過酷なため、かえって人々は訴えるのをためらったと考えられる。ほとんど事件にすることなく、できるだけ穏便に処理された。ただし、感情のもつれや行き違いから殺傷事件にまで発展すると、町奉行所にもちこまれ、杓子定規に厳格な刑罰が適用された。

 

なお、女郎買いなど、玄人の女との性行為は密通ではない。また、主人が奉公人の女に手を出しても密通として処罰されることはなかった。

 

 

遊女は差別されなかった

遊女のほとんどは親兄弟を救うために身売りした女だった。こうした事情は当時の人々もわかっていて、「淫乱で好き者だから遊女になった」とは誰も考えなかったし、むしろ「親孝行をした女」として、世間は遊女を差別しなかった。

 

こうした社会的な理解があっため、年季が明けた遊女を妻や妾として迎えることに抵抗はなかったし、とくに吉原の遊女を身請けした男などは妻の前歴を秘すどころか、自慢した。まわりも「元玄人だけに粋で、さばけているところがある」と、好意的に解釈した。

 

* * *

 

さらに、当時の人々の性に対する意識を、具体的に掘り下げて見てみます。

男たちの本音

戯作『青楼曙草(せいろうあけぼのぐさ)』に、吉原にいりびたりの息子が、義父と対面する場面がある。息子が恥じ入るのに対し

若いときァ、ありうちのことサね。これも人付合の学問だから、いっぺんは誰しも苦労をしてみるのがいいのサ

※1 p120

女郎買いは若い男にはありがちのことで、一種の人生勉強でもある、と理解を示している。

 

戯作『仮名文章娘節用』の、武士が十八歳の息子に諭す場面では

女郎買いなどは三度に一度は、はずされなけりゃァ、いくがよいわさ。さりながら傾城傾国の譬え(たとえ)もあれば、必ず深くはまらぬよう…

※1 p120

友達に女郎買いをさそわれたら、三回に一回くらいは付き合った方がよいと父親が勧めている。ただし、深入りはしないようにと注意もしている。

 

戯作『醇堂叢稿(じゅんどうそうこう)』では、夜中に下女の寝所へ夜這いしようとした旗本の息子が、父親と鉢合わせをした場面が描かれている。父が息子に

「佐次右衛門なるか、此寒夜に薄衣にて小便所へ往くなかれ、風邪ひくぞ」と声をかけ「おれが先へ往てきた」と言い捨てて行ってしまった

※3 p215

息子より先に下女に夜這いをかけた父が、息子と出くわして「俺が先に済ました」と臆面もなく言っている。ちなみに、息子は父親の真似をしているようで恥ずかしくなり、引き返している。

 

* * *

 

父親は男同士理解を示しています。息子は若干後ろめたさを感じている様子が読み取れます。ただ、友達からは気軽に誘われていますし、当時の家長制度を考えると、この後ろめたさは世間に対してというより父に対してではないか、という気がしました。

 

では、女たちはどうだったのでしょう。

 

女房たちの本音

戯作『浮世風呂』での、女がもうひとりの女に、姉の夫について話している場面。義兄は女郎買いはしないが、素人の情事が絶えないという。

女郎買いは大概、程があるからよいけれどの、地者好きのぼろッ買いという者が性悪でいかねえものさ。わたしらも、きつい嫌いさ。マァ、一体、男らしくねえネ。男なら男のように金を使って売り物買い物がよいわな

※1 p122

女郎買いするなら仕方ないが、素人に手を出すような男な最低だね、と評している。

 

また、戯作『松の内』では、葬式の後に精進落としと称して女郎買いする亭主に対して

悪い癖で、いつでも葬いというと、そのあとは女郎買えよ

※1 p125

と、愚痴こぼしている。

 

* * *

 

女性の方は、男の女郎買いは仕方ないと認めつつも内心は良くは思っていない様子が伺えますし、素人への手出しははっきりと不満を抱いています。

 

 

女性も謳歌していた

女が男を買う

男の女郎買いだけでなく、女のなかには「役者買い」「相撲買い」をする者もいた。裕福で好色な女が、若手の歌舞伎役者や相撲取りを買ったのである。男色専門の陰間を女が買う場合もあった。

 

亭主の留守中に

春本『華古与見(はなごよみ)』や『笑本連理枝(えほんれんりのえだ)』には、亭主の留守をよいことに、女が間男(まおとこ)を呼び寄せる場面がある。

 

寺参りと称して

奥女中が参詣と称して僧侶と淫欲にふけっていたり、夫に先立たれた若後家が、貞女の道を立てて髪を切ったものの体がうずき、寺参りを口実に好色な坊主を誘惑することもあった。
 

 

予想をはるかに超える「お盛ん」ぶり

いかがでしたでしょうか。

 

予想をはるかに超える江戸の「お盛ん」ぶりに、驚きが隠せません。

玄人女も素人女も男を受け入れ続けたし、女も大胆に楽しむこともあった。

また、疑問だった遊女の身請けも理解できました。

 

ただ、「性に寛容な社会」と聞いて、社会がおおらかに受け入れいてる印象を持っていましたが、それは少し違うなと感じました。

 

江戸時代、玄人の女との性行為は認められていたけれど、それ以外の婚姻外の性交渉は密通であり、穏便に済ませられることが多かったとはいえ、表向きには大罪です。

厳密には「男の女郎買いに寛容な社会」ということなのかもしれません。さらに一人一人の心情は、もう少し複雑なものだったでしょう。

 

 

次回は、当時の人がどのようなセックスをしていたのか、もう少し具体的に見ていきたいと思います。

 

(つづきの記事はこちら)

 

 

江戸の性愛に関する7記事を読んでの感想をいただきました!

ウッペさんちゃんと分析して考察されてて凄いや。まだ全部読んでないけど知らなかった事も沢山あって勉強なります。ちゃんと目通して色々紐解いてみよっと。まずは感謝🙏m(_ _)m

妻博士・男性

 

理屈っぽい私にも非常にわかりやすく、読者の疑問を先取りするかのような文章に飲み込まれていきました。(中略)かなり、難解な資料を読み解かない限りわからない内容ばかり、それを分かり易くまとめくれたウッペさんに感謝です。

いちろー・男性

 

引用・ 参考文献
※1)永井義男. お盛んすぎる江戸の男と女. 朝日新書, 2012.
※2)永井義男. 江戸の売春. 河出書房新社, 2016.
※3)氏家幹人. 江戸のエロスは血の香り. 朝日新聞出版, 2010