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奔放さゆえの暗黒面

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春画 売春宿 アムステルダム国立美術館

"Taferelen in een bordeel " owned by Rijksmuseum - Europeana

 

の続きです。

 

江戸時代の性事情を語るうえで、当時は効果的で安全な避妊・性病予防方法がなく、それによる弊害を避けて通ることはできないと思います。今回は、性に奔放だったがゆえにもたらされた暗黒面について、まとめていきます。

 

今回の内容はこのブログで一番ディープなところと言えるでしょう。しかし、しっかり潜る必要がありました。闇を光に帰すために。

 

もし、途中でしんどくなられた場合は、感情を切り離し、俯瞰するように読んでみてください。

  • 本からの要約部分は、「〜だ」「〜である」調になっています。
  • 当時の文献は、大きく春本と戯作(人情本、洒落本、滑稽本など)に分け、ノンフィクションは書名だけで記しています。
  • 記事中に差別的な表現が出てくることがありますが、当時の社会的、文化的状況が反映された表現ですので、ご理解をお願いいたします。

 

 

  

安全で効果的な避妊・性病予防方法がない

江戸時代は、現代のような効果的で安全な避妊方法がなかった。
コンドームのような避妊具や、ピルのような避妊薬はなかったし、排卵日と妊娠に関する知識もなかった。そんななか、いわゆる「ナマ」で性行していた。こんな状態で逢瀬を続けていると、いずれ女は妊娠する。

 

また、コンドームがなかったので性病に対しても無防備だった。女郎買いをすると梅毒にかかりやすいのは経験的に知っていたが、基本的に無知だった。医学や衛生の水準が低かったこともある。

 

素人

妊娠した場合

妊娠を契機に双方の親が二人の仲を認め、晴れて夫婦になることができれば良いが、なかなかそうはいかなかった。

当時、きびしい身分制があった。

武士と庶民の婚姻は禁止されていたため、旗本の息子に迫られた女中が妊娠しても妻にすることはできない。妊娠が発覚すれば、女中はせいぜい手切金を渡され、屋敷から暇を出されるのが落ちである。庶民でも大店の娘と近所の職人や、奉公人同士でも認められなかった。

 

薬による堕胎

では女が妊娠した場合、どうするか。
幕府の判例集御仕置裁許帳(おしおきさいきょちょう)』に、奉公人同士で妊娠した男女の話が記されている。

 

男が怪しげな薬屋を訪ね、金一分を渡して堕胎薬を調合してもらった。
薬を飲んだ女お初は流産して堕胎には成功したが体調を崩し、容体が悪化して死亡した。

 

江戸の堕胎薬の成分は不明だが、水銀がふくまれていたようだ。たとえ堕胎に成功しても母体の健康を害した。お初のように死亡する例も少なくなかったであろう。

 

粗雑な中絶手術

堕胎の専門にする医者のことを「中(仲)条流」や「女医者」といった。

天明三年ころには、江戸の町のあちこちに中条流の看板がかかっており、それだけ需要が多かったことが伺える。

堕胎の実態は不明だが、現在とはくらべものにならないくらい粗雑な手術だったに違いない。たとえ妊娠中絶に成功したとしても、その後に体調を崩す、あるいはそれが遠因になって死亡する女は多かったであろう。

 

厠に産み落とす

大奥における奥女中の生活空間を長局(ながつぼね)というが、『甲子夜話(こうしやわ)続編』に拠ると、長局の便所から汲み出された糞尿のなかから嬰児の死体が見つかったという。

宿下がり(年に一度実家に戻ることを許されていた)のときの逢瀬で妊娠し、産み落としたものの始末に困って便所に遺棄したのではなかろうか。もちろん、大奥のことだけに隠蔽され、詳細は不明である。

 

身売り

避妊がなく、性に旺盛だったわけだから、子だくさんの家は少なくなっかった。貧窮におちいった家は子どもを育てていくことができず、娘を身売りに出した。買い取るのは女衒(せげん)である。女衒は農村をまわって女の子を買取り、吉原やその他の遊里に転売した。

 

江戸でも裏長屋の貧乏人が娘を売るのは珍しいことではなかったし、没落した商家が切羽詰まって娘を売ることもあった。たいていは女衒が仲介したが、両親や親戚が娘を妓楼に連れて行くこともあった。江戸の遊女はみな身売りであり、実質的な人身売買だった。

 

* * *

 

読んでいて辛くなりますね。

著者の

有効な避妊法や安全な中絶手術がなかった時代だけに、性を享楽したあげくのつけも大きかった。往々にして悲劇になっていたことも忘れてはなるまい。しかもたいていは女が犠牲者となった。

※1 p33

 の言葉が響きます。

 

 


名所江戸百景 廓中東雲 アムステルダム国立美術館

"Kakuchu toun" by Rijksmuseum - Europeana

玄人

妊娠した場合

遊女の多くは荒淫と性病のせいで妊娠しにくい体質になっていた。しかし、避妊方法としては懐紙を噛んで唾液で丸め、膣の奥に押し込む「詰め紙」程度だったため、妊娠することもあった。 

妓楼にとって遊女に妊娠されるのは痛手のため、中条流の医者を呼んで堕胎させた。

全盛の花魁が妊娠したときは大事をとって、別荘で出産させることもあったが、妓楼に赤ん坊がいては営業に差し障りがある。たいていは生まれてすぐ里子に出された。女の子のなかには禿として育てられるものもいた。

 

性病が蔓延

遊女はコンドームなしで不特定多数の男と性交渉をする。数年もすれば、ほぼ百パーセントの確率で梅毒や淋病などの性病に感染した。

『凌雨漫録(りょううまんろく)』によると、

すべて遊女はトヤとて初年のうちに一旦黴毒(ばいそう)を煩うなり

※1 p214

とあり、ほとんどの遊女は最初の一年の間に「トヤ、黴毒(ともに梅毒)」に感染したという。

 

しかも、当時は抗生物質がないため完治することはない。漢方薬で痛みを抑えるなど、その場しのぎの対症療法をするだけである。

 

梅毒は感染初期には局部に痛みがあり、髪の毛が抜けたりするが、しばらくすると潜伏期間にはいり、表面上は症状がおさまる。当時の人々は、これを治ったと考えた。

一旦梅毒になって回復すると、もう二度と感染しないと考え、妓楼・女郎屋は歓迎した。性病にかかった遊女は、今度は客の男にうつす側になる。

 

遊女から性病をうつされた男はさらに家で女房にうつした。また、母子感染することもあった。女郎買いに寛容な社会だっただけに、遊女を媒介に社会の隅々まで性病が蔓延していった。

 

 

悲惨な末路

梅毒が進行すると俗に「鼻が落ちる」といわれていた。

『近世物之本江戸作者部類』には、梅毒にかかって鼻が落ち、ついには脳をむしばまれ、狂い死にした男の末路が記されている。

 

また、『甲子夜話』には、

すれ違った船から、かすれた弱々しい声が聞こえてきた。

「せつなや、せつなや」

「もうすぐ楽になるぜ」

そばの男がなぐさめている。

ややあって、ザブーンと水音がした。

※1 p217

病み呆けてもう客をとれなくなった夜鷹を、牛の男が川に放り込んで厄介払いする目撃談が収められている。

 

 

年季が明けた遊女のその後

次に、年季が明けた遊女の現実は、どのようなものだったのでしょうか。

 

年季

吉原の遊女の年季は「最長十年、二十七歳まで」と定められていた。しかし『吉原徒然草』に

女郎のさかりは、十七より十九二十とも、水あげより七年ともいへど、廿(にじゅう)三四過れば、すがるる事、おほやうたがはず。

※2 p34

とあり、遊女の盛りは短く、二十三、四歳をすぎると衰え始めるのが普通だった。

きちんとした統計はないが、健康な体で年季を終えることができた遊女は少数派で、多くは年季の途中、二十代で病死するものが多かったとみられている。

 

しかし吉原は公許の遊郭だったため、年季についてきちんと定められており、まだよいほうだった。非合法の岡場所では年季に関する規定などなく、女郎屋が勝手に決めた。

 

売春の世界から抜け出せない

元遊女は世間から蔑視されなかったが、実際は遊女が普通の家庭の妻になることは難しかった。

 

元遊女の女は結婚しても子供ができにくいといわれていた。当時は武家であれ庶民であれ家の存続が重んじられたため、最初から子供ができそうもない女を妻に迎えるのは、親や親類反対があったであろう。


また、遊女は炊事・洗濯・裁縫などの経験がないため、まったく家事ができなかった。しかし、下男下女を雇えるぐらいの男の女房、あるいは妾になると、家事労働は奉公人がすべてやってくれたので、どうにかやっていけた。

そのため、年季の明けた遊女は、幇間(ほうま=男芸者)や小料理屋や茶屋の亭主など、妓楼・女郎屋の関係者と所帯を持つ例が多かった。

 

また、吉原のなかの下級妓楼である河岸(かし)見世や、岡場所や宿場の女郎屋に流れていく例も少なくなかった。

 

結局、売春の世界から抜け出せなかったのである。

 

 

遊女の楽しみ

遊女の身の上がいかに悲惨だったがわかるが、別な一面もあった。

たとえ貧農の家の娘でも、江戸の遊女になれば衣食住のすべてにおいて貧農生活よりぜいたくができたし、客の男から豪華な贈り物をされることもあった。読み書きを教えられ教養を身につける機会もあった。

何より、遊女であれば過酷な農作業や、はてしのない家事労働とはいっさい無縁の生活ができた。

 

妓楼で磨かれるうちに変身し、全盛の花魁となり身請けされたり、年季が開けた後に富裕な男に迎えられることも、ほんの少数だったがあった。

苦界だったのには違いないが、遊里の暮らしに楽しみや喜び、幸運があったのも事実である。

 

* * *

 

厳しい中にも遊女ならではの楽しみがあったのが、救いのように感じました。

でも、遊女になってもならなくても過酷な状況であることには変わりがないことが浮き彫りになり、その多くが奔放な性のあり方に由来しているように思います。

 

 

家系図の中の女性たち

今回の記事をまとめながら、私は自分の家系図の中の女性たちに思いを馳せていました。
家系図は、母方の親戚のおじさんが作ったもので、祖父の祖父母(高祖父母)まで書かれています。

 

高祖母は嘉永生まれ。子ども8人を生み、そのうち4人を養子縁組に出しています。なんらかの理由で育てられなかったのでしょう。

 

曽祖母(祖父の母)は、子どもが9人。一人一人の生年月日も書かれていて、見るとみんな一歳半〜二歳差でした。

曽祖母は嫁(祖母)にとてもきつく当たったり、孫である母を可愛がることもなかったそうです。いじわるな人だった、と一言で片付けてしまうこともできるけれど、22歳で母になり、子どもが1歳になるかならないかの時期に次の子どもを妊娠し、次々と9人生み続けた彼女は、どんなセックスをして(されて)きたんだろう、どんな思いで子育てをしてきたんだろう、と思わずにはいられませんでした。

人に辛く当たることでしか、自分を保つことができなかったのかもしれません。

 

祖母の子どもは6人ですが、6人目のあと、少なくとも1人堕胎しています。私がその事を知っているのは、祖母は目が悪く、堕胎手術に母が付き添い、その話を何度も聞かされていたからです。術後、1日安静にするように言われたものの、ゆっくり休むこともできず、また、当時の手術は今よりも母体に負担が大きかったのでしょう、出血がとまらない状態で働いていたそうです。その時母は小学生でした。

 

江戸時代の暗黒面は単なる過去の話ではなく、その後も脈々と受け継がれてきたのだと思います。

 

かつて母は私に「(彼氏と)男女の関係になったら許さへんしな!」「傷つくのは女なんや!」と強い口調で言いましたが(詳細はこの記事に)、女性たちが受け継いできた傷を私には経験させたくない、という母なりの想いでもあり、不器用な表現でもあったのだと思います。

 

 

江戸の性事情を知って思ったこと

いかがでしたでしょうか。

 

確かに江戸の人々は性を謳歌していました。その一方で女性たちの置かれた悲惨な状況を思うと、苛立ちで感情に飲まれそうになりました。

 

でも、現代の感覚で当時の社会を単純に批判することはできません。

 

ただ、生も死も、現代よりずっと人々の日常のすぐ近くにあった、ということは間違いないと言えそうです。

 

当時の人がどのような感覚だったのかもっと知りたい、そう思った時に、以前読んだある本のことを思い出し、もう一度読み返してみることにしました。

 

(つづきの記事はこちら)

 

 引用・ 参考文献
※1)永井義男. お盛んすぎる江戸の男と女. 朝日新書, 2012.
※2)永井義男. 江戸の売春. 河出書房新社, 2016.