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〜レス妻の目覚めの記録〜

「江戸は性に寛容な社会だった」の意味を考える

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吉原夜桜ノ図 ストックホルムの博物館

"Träsnitt, Bildkonst, Woodcut, Woodblock, Print " owned by Östasiatiska museet - Europeana

 以下の4つの記事では

 

江戸のお盛んな性事情と、その暗黒面を

 

こちらの記事では、それにも関わらず、人々の陽気で幸福に満ちた様子を外国人の視点を通してご紹介してきました。

 

引き続き、『逝きし世の面影※1』をもとに当時の日本人の気質を考察しながら、「江戸は性に寛容な社会だった」の意味を改めて考えます。

  • 記事中に差別的な表現が出てくることがありますが、当時の社会的、文化的状況が反映された表現ですので、ご理解をお願いいたします。

 

 

生活もあけっぴろげで、人々を隔てる垣根も低かった日本人は、性や裸に対しても開放的でした。

 

日本人の性

外国人たちをさらに仰天させたのは、日本人の混浴や、公然と肌をさらす習慣でした。

 

 

混浴と裸

湯には子づれの女が入っていたが、「彼女は少しも不安気もなく、微笑を浮かべながら私に、いつも日本人が言う『オハヨー』を言った(ハリス)

p299

 

公衆浴場で「男、女、主婦、老人、若い娘、青少年が混浴するが、だれも当惑した様子がな」く、「主婦は三助に奉仕され体を洗ってもらうが、そのさい彼女たちは海水パンツをはいているわけでもバスローブをまとっているわけでもない」(ヴェルナー)

p302

 

人の往来のある一軒家の前で、行水をしているある婦人は

彼女は身体を洗うことを中止せず、平気で我々一行を眺めやった。(モース)

p307

 

彼らは、そんな日本人の態度に苦しみながらも、礼節・礼儀とは何かを考察しています。

 

アリスは、田舎で半裸の男女と子どもたちを目にし、この者どもは文明人というより野蛮人ではないのかと、という感想を持ちましたが

しかし、いたるところに上質な旅館があり、そこで便所や食卓などのあらゆる設備がきわめて清潔で、サービスも丁寧でゆき届き、契約通りに仕事が進んで行われることを知った時、(中略)日本にはわれわれ自身の文明とは多くの重要な点で異なってはいるが、たしかに高いタイプの文明が存在するのだと結論しないわけにはいかない。

 

日本人の尺度によると、たんに健康や清潔のためとか、せねばならぬ仕事をするのに便利だからというので、たまたまからだを露出するのは、まったく礼儀にそむかないし、許されもすることなのだ。だが、どんなにちょっぴりであろうと、見せつけるためにだけ体を露出するのは、まったくもって不謹慎なのである。(アリス)

p310-311

 

徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していませんでした。

徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時日本の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれねばならない。

p312

開放的な社会の中では、裸が恥ずかしいことではなかったのです。

 

 

性に対する観察もいくつかご紹介します。

性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、したがって羞じるに及ばないものだった。

p322

 

男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものであった。徳川期の春本は、性を男女和合と笑いという側面でとらえきっている。

p322

 

本質的にあっけらかんと明るい性意識がその根底にある。

p322

 

性についてことさらに意識的である必要のない、のどかな開放感のみち溢れる日本でもあったのだ。

p322

 

性に対してもまた、裸と同様、恥ずかしものではなく、開放的でほがらかだったようです。

 

売春に対する明るい態度は前回の記事に書いた通りですが、

イザベラ・バードは伊勢山田を訪ねて、外宮と内宮を結ぶ道が三マイルにわたって女郎屋を連ねていることに

この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる(イザベラバード)

p333−334

と観察していますが、実際、売春はこの国では宗教と深い関連をもっていたといいます。

 

「裸と性」の章の締めくくりに、筆者はこう書いています。

性は生命のよみがえりと豊穣の儀式であった

 

外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によってけっして捉えられることのない、性の古層の遺存だったというべきである

p334

と。

 

 

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生死観

最後に、このように、何事に対しても明るくあっけらかんとした当時の日本人が、死というものに対してどのような価値観を持っていたのか、見ていきます。

 

ある葬儀に遭遇した外国人の観察によると

私は長崎の町の付近で散歩の途次、たびたび葬儀を見た。(中略)棺は我々の考えでは、非常に嫌な方法で方法で担がれ、あたかもお祭り騒ぎのように穢れていた。(カッテンディーケ)

p506

 

ヴェルナーも長崎で葬列に出会い、参列者が「快活に軽口を飛ばし、笑い声をたててい」るのを見た。「死は日本人にとって忌むべきことではけっしてない。日本人は死の訪れを避けがたいことと考え、ふだんから心の準備をしているのだ」

p506

 

また、日本橋から京橋にかけて一万戸を焼いた火事について。

「笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いを助け合ったりして、助け合っているのだ。大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙にくれている者は一人もみなかった」。しかも彼女が「驚嘆したことには、あちらこちらに新しい建築の枠組みが建てられていた。その進行の速さは驚くべきものだった。(アメリカ人少女のクララ・ホイットニー)

p508

 

女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。まるで何事もなかったのように冗談をいったり笑いあったりしている幾多の人々をみた。(ベルツ)

p508−509

 

死や災害に対して悲しまないことはないけれど、現世からあの世に移ることはごく平気に考えていたし、それを茶化すことができた人々だったのです。

 

彼らはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

p505

 

彼らの世界観では、なるほど人間は様がつくほど尊いものではあるが、この世に置けるあり方という点では、鳥や獣とかけ隔った特権的地位をもつものではなかった。鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。

p505

自然に対して意識を開いていた人々にとって、人間もまた自然の一部として融和した存在だったのです。

 

 

曖昧な境界線

ここまでご紹介してきた当時の日本人の素顔は、ほんの一部でしかないけれど、その中で私が感じたのは、境界線という概念の希薄さでした。

 

貧富の差はあっても、それで差別的な扱いを受けることはなく

 

支配する側される側の立場はあっても、支配の形態はきわめて温和で

 

売春も密通も、社会通念上は確かに悪だったけれど、悪は悪として一定の居場所が与えられ

 

死や災害は悲しいものではあっても、忌み嫌ったり遠ざけられることはない。

 

 

- 自分と他者
- 人間と自然
- 幸と不幸
- 善と悪

 

一見対立するように見える両者を分け隔てるものが、とても曖昧なのです。

いえ、そもそも対立していないように見えます。

 

自分も他者も、善も悪も丸ごと一つである。全てが一体化しているような世界だったのかもしれません。

 

 

「江戸は性に寛容な社会」だったか

 

ここで改めて「江戸は性に寛容な社会」という表現を考えたとき、それは単に「セックスに対して享楽的であった」という意味なのでしょうか。

 

確かに人々は、快楽という命の喜びをあけっぴろげに享受していました。

 

しかしその一方で容赦無く襲いかかる様々な悲劇や死に対しても、あっけらかんとしていました。

 

 両者は分断されることなく、地続きでつながっていたのです。  

 

「性」には喜びも悲しみも、生も死も、含まれており、江戸の人々は「命」をまるごと包み込んでいたのだと思います。

 

 

そしてもし、「性」をそのまま性的な意味として捉えるのであれば、社会が寛容だったのではなく、女が寛容だったのではないか、とも思います。

 

玄人女も素人女も男を受け入れていた。

とりわけ遊女は社会の底辺へ追いやられても、男たちを受け入れ続けました。

 

『遊女の文化史※2』によると、かつて遊女は巫女であり、聖なる性を担う宗教的女性であったそうです。

 

時代が下がるにつれて、遊女から「聖なるもの」が失われていったけれど、それでも彼女たちは

日常生活から切り離された空間で、多くの男たちに性を与えることにより、男を甦らせる女神であり、巫女だった

※2 p229−230

と。

 

「遊」という言葉は本来「魂をなぐさめる」という意味だともありました。

 

男たちに肉体を開くことで魂をなぐさめ、再生のエネルギーを与えていた。

 

世間は遊女を差別しなかったというけれど、実は遊女の方が世間を抱擁し続けていたのかもしれません。

 

 

・・・

 

 

 

いずれにせよ、このような社会が幸福だったのか悲惨だったのか、私にはわかりません。

 

ただ、近代化によって私たちが享受している恩恵と、その一方で新たに生み出されてきた不幸を、より身近なレベル、かつ深い領域で感じることができたように思います。

 

また、江戸という社会に現代の感覚をそのまま当てはめることはできず、自分がこれまで普通や当たり前、正しさと思っていたことは、実はとても曖昧なものだとも改めて思い知らされました。

 

私たちが「当たり前」と感じている価値観の土台は、どのように形作られているのだろう、そんなことを漠然と考えたりもしました。

 

私はさらに古い時代の文献へと導かれていきます。

 

 

(つづきの記事はこちら)

 

記事の感想をいただきました!

記事を読み終わり、何とも言えない 感動のようなものに包まれています。 まずは、理屈っぽい私にも非常にわかりやすく、読者の疑問を先取りするかのような文章に飲み込まれていきました。 司馬遼太郎の本にも、ペリーが江戸の人たちの善良性を記録に残していたことが記載されてて、こういう国を侵略(ちょっと語弊がありますが)することに逡巡していたことにつながる内容で、ものすごく共感しました。(中略)本当に感動というか、何とも言えない読後感に包まれていて、勢い余っての投稿になっています。

 

ーー翌日改めて感想をいただきました。

昨日、読み終わってから何がそんなに感動したのか、反芻していました。余韻がまだ続いています。

私は歴史好きでTVの歴史番組はよく見ています。江戸時代の人たちの性の奔放さを説明されている部分は、TVの歴史番組をみているような気分だった気がします。急激に引き込まれていったのは、闇の部分とそれを受け入れていた江戸時代の人の異質さ(外国人から見て)でした。自分自身で疑問には思っていながら、私は踏み込んで知ろうとしませんでしたが、調べ切ったウッペさんに尊敬の念が抑えられません。かなり、難解な資料を読み解かない限りわからない内容ばかり、それを分かり易くまとめくれたウッペさんに感謝です。

いちろー・男性

 

RT歓迎♪

 

引用・参考文献
※1) 渡辺京二. 逝きし世の面影. 平凡社, 2006.
※2) 佐伯順子. 遊女の文化史: ハレの女たち. 中公新書, 1987.