の次に、原作の小説を読んでみることに。『娼年』と続編にあたる『逝年』(せいねん)、『爽年』(そうねん)も続けて読みました。
主人公リョウの透明感や硬質感、それからストーリーも小説の世界観を大切に映像化されていたことに気づきます。
でも、セックスの描き方は全く異なるものでした。
小説では、とても優しく繊細で、時間がゆっくり流れているように感じられたのです。
どんな女性のどんな体も、傷も、過激な性的嗜好も、人間が持つ欲望も…
ジャッジされることのない、リョウの慈しみ深い眼差しに包まれていました。
各本から、いくつか引用したいと思います。
娼年
一つだけ残された性器は、ぼくに教えているようだった。自分はなにものでもない、ただの扉だ。観察し理解するのではなく、わたしをとおって命を見つけなさい。 p45
ぼくは娼夫になり、より自由になった。(中略)ある人が語るストーリーが世間の常識やよい趣味からはずれていくとき、身をひいて心を離してしまうのではなく、それまでよりもっと耳を澄ますようになった。欲望の秘密はその人の傷ついているところや弱いところにひっそりと息づいているからだ。 p106
ぼくたちは自分で設計したわけでもない肉体の、ごくわずかな部分に振りまわされて一生を過ごす。(中略)この世界の途方もない複雑さと同じだけの深さが、ただのセックスにはあるのだという事実が、その夜ぼくを圧倒していた。 p153
逝年
あなたが今悲しいのなら、その悲しみをわたしに感じさせて。ふたりで分け合ってその色をもっと深いものにする。わたしはわたしの体を通して、リョウくんの悲しみを感じたい。ぼくたちは心を分け合うために、身体を重ねる。 p189
人は生きる限り、欲望をもつ。それを誰も笑うことはできないのだ。ぼくたちは色とりどりに咲き乱れる欲望の花束を、胸の奥に死ぬまで抱えて生きている。 p200
熟した花の花びらが、自分の秘密を明かすために、外側に開き切っていく。あのまろやかな曲線を醜いというほうがセンスが悪いのだ。 p205
押せば指先が沈むようなやさしいふれ心地である。ぼくの好きな四十代の女性の、なにか許してくれそうな肌だった。 p209
爽年
この国に住む人たちの不幸の半分は、満たされない性から生まれている。 p4
ぼくたちは、ベッドの上で最短の手順など求めないものだ。できる限り長く、無駄が多く、気持ちのいいルートが欲しいだけだ。ぼくはAIがいくら人の知力の一側面を超えても、人の心をつかむ小説を書いたり、音楽を作ったりできないと信じている。快楽を全くしらない者には、快楽を生み出しようがないからだ。 p46
女性としての価値。多くのオットはセックスレスをただ性行為が欠けた結婚生活とみなしている。けれど、それは違うのだ。性的な魅力や能力はその人間の基本的価値を形作るもので、ことに夫婦間では、人間としての尊厳そのものだ。 p46
精神が眠りと闇を欲するように、肉体も夜と快楽を求めている。人の世のことわりから完全に解放された性の時間を定期的にもたずに、人が自由に生きられるとはぼくは思わない。 p71
一つ一つの言葉が、心の深部に問いかける。
抗うこともできず、受け入れることしかできなくて、ただ静かに反すうする。
そうして見えてきたもの…
欲望の底にあったのは、心と体を解放することを制限された命の渇き。
その先にあったのは、生きること、命というものへのまっすぐな眼差しでした。
セックスは単なる行為ではなかったんだなぁ。
『爽年』の後半で、リョウがたどり着いた世界を目にした私は、ずっと知りたいと思っていた「幸せなセックス」の姿を見たような気がしました。(ネタバレになるので詳細は控えます。)
映画も小説も、それぞれの角度から重要な気づきを与えてくれるものでした。
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